読書感想文を書きたくない人へ:書き方編で、多少皆様の役に立ちそうなことを書きました。
今回は短期的には全く役に立たない話です。本当に暇な人と探求心のある人だけ読んでください。あ、でも国語というものにもやもやしている人には参考になるかも。
どちらかというと、大人の方にはぜひ幅広く見ていただきたい内容だったりします。
前編とは違い、もっと根本的に、読書感想文とは結局何なのか、どうしたら書いてもいいと思う思考回路になるのか的な話をしています。(←言い方がやばい)
私は理系ながら、色々あって現代文にかなり詳しいです。(こういうと怪しいですけどね
記述問題の書き方を教えたり、添削したりしたこともあります。(ブログではあえていつも崩した文章を書いてます)
基本的に語彙力が低いからこそ、読解力とか考察力だけはある程度自信がありますし、わかりやすく人に教えるのも多分得意です。
そんな私の気づきを共有していきたいと思います。(主に小説を想定しながら書いてます)
これです。言いたいのは結局これだけです笑
多分、多くの人がこれをわかっているようでわかっていないのではないか?と思います。
〇国語の読解とは
これは実は私の恩師の受け売りではあるのですが…
とにかく客観的に読むこと。
つまり、自分の感想を入れないこと。
案外、勉強が得意な人でも、現代文だけは何が正解なのかわからない、勘でやるものじゃないの?という認識をしている人が多い気がします。
難しいところですが、違うんです。
昔のセンター試験なんかだと作者が直々に「その解釈間違ってるから!!」と言ってきたりとか色々あったようですが、最近ではかなりよくなってきてます。
(一部の学校の個性的な入試問題とかを除いて)客観的に読むことができるはずなんです。
じゃあどうすれば客観的に読めるのか?というと、
1つ1つの単語が持つニュアンスを意識すること
から始まると思っています。
単語という最小単位では案外幅がないんですよ。教えられなくてもみんな同じような認識を持っているんですよ。
辞書に載ってる内容というだけでなく。
例えば、「1つあった」と「1つしかなかった」の差を大事にするんです。
「しか」という単語が存在することを無視しない。
こういうところに、客観的に読み取れる感情がひそんでます。
この場合だと、後者は、「もっとある」と思っていた感じがします。つまり、「期待があった」ニュアンスが含まれています。
日常会話でも自然とやっていることですが、これを考えながら読み取るわけです。
でも、すべての単語をしっかり見るのは疲れると思います。
問題を解くときは、まずは傍線部に注目してください。
短い文、一語たりとも無駄な単語はありません。
なぜその単語が入っているのか、考えてみてください。
全体としての読み方はまた他に色々あるのですが、とにかくそういうところから、「人の感情(という形のないもの)を客観的に、理論的に読み取る」ことが始まっているわけです。
…と、国語の講座的になってしまいましたが、自分の考えとは切り離して、とにかく書いてあることに集中するのが大事なんです。
小論文の設問があるテストなんかもあったりするのでごっちゃになりがちですが、客観的に読み取るべき設問というのはちゃんとあるんです。
〇問題を解くときだけ客観的に読むことを徹底しよう
学校のテストの形式や授業によってはこれに慣れることが難しいかとは思うのですが、頑張ってみてください。
慣れると、問題を解いている時でも、脳内のもう1人の自分が、問題とは全く関係なく感想を考えることができるようになるんですよ。
まあ、同時にやるのは難しいので、とりあえず問題を解くときは集中してみましょう。
で、終わった時に、客観的な読み方をやめて、今度は主観的に読んでみるんです。
読解と感想が混然一体としていたのが分類されて、逆に、読解をするだけでなく感想を考えることも上手くなる、と私は思っています。
これができるようになると、感想文のためだけに読んだ本でも感想を持ちやすくなると思います。
というか、感想を言葉にすることがむしろ、客観的に読まなければいけないプレッシャーから解放された自由な状態に思えてくるくらいです。
(ここまで言うと凄く怪しく聞こえますね笑)
〇感想文とは何なのか
私は、「国語の読解=表、感想文=裏」みたいなものだと思っています。
読解と違って学問的な、客観的なものではないから学校で取り扱うべきではないのかもしれないけど、バランスを取るために実は必要なのではないか、と思います。
そう考えると、学生の間に読解(客観的に読むこと)を習って、大人になってから感想を言葉にできるようになれば十分なんじゃないかなあ。
まあ、宿題としてちょうどいいから学生の間にやるだけですよ、多分。
〇「ほとんど」別物であるのはなぜか
ここまでの話、読解は客観、というのはほぼ絶対的なんですよ。
テキストとかテストになる以上今後覆されることは考えづらい。(教育改革でそもそもそういう読解の比重を減らそうってなったらどうなるかわかりませんが)
あなたの考えを教えてください、という設問は、そういいつつもほぼ読解の(答えがある)パターン、感想文に近いパターン、両方ありますが、少なくとも他の設問と同じだと思わない方がいい。
じゃあ、感想文が絶対的に主観なのか、というとそんなことはないと思います。
読解を感想文に寄せるのは(少なくとも今のテストとかの形式だと)よくないけど、感想文を読解に寄せるのはアリだと私は個人的に思います。
何が言いたいかと言うと、客観的に読む練習をして読解はできるようになったけどどうしても感想が浮かばないという人は、「読書感想文」の宿題に読解を書いてもいいと思います。
そうすると、「私はこの本のこういうところに惹かれた」とか、「私の体験と照らし合わせてこう思った」とかいう内容はなくなっていきます。
でも、クオリティの高い読解をしていれば、十分オリジナリティのある内容になると思います。(読解の内容自体にオリジナリティがあるのではなく、場面の切り取り方とか、他の人が書くいわゆる「感想文」との差別化とかそういう意味で)
具体的に言うと、国語の設問と同じく、なぜこの登場人物はここでこのような行動をしたのか、どのような気持ちだったのかとかを客観的に書くんです。
さらに、テスト(短い文章から読み取る)だとできないけど読書感想文だとできるのが、離れた2シーン以上の関連性について書くこと。それができれば一気に幅が広がります。
…ここらへんの内容、書いて誰の参考になっているのかわからないですが、リアルで一人だけ参考になりそうな人を知っています。
凄く頭がいいけど、自分の考えを人(特に学校の先生)に見せたくない、という考えなんです。
それで国語のテストの記述問題を全然書いていませんでした。
ですが、私に言わせると、テストの記述問題は(これまた学校によるけど)それでも書けるものが多いはずなんです。
そして感想文は確かに自分の考えを見せたくないなら書けない。…というわけではなく、書けないなら読解をして乗り切ってしまおうというわけですね。
ここまで極端でなくても、本音で書くのが恥ずかしい人にはちょっとは参考になるかも。なったらいいな。
実は感想文は感想を書かなくていい。これ、結構革命かもしれない。簡単にはできないけど。
〇一周回って国語の読解とは何なのか
ここまで自分で書いていても思ったのですが、文学ってそんなものなのか?芸術でもあるよね?客観的に読むっておかしくない?
とも思いませんか?
これはだいぶ作品にもよると思うんです。
読解なんてものを絶対に寄せ付けないという強い意志すら感じる作品もたくさんあります。
だから国語で取り上げられやすい作品=読解が成り立つ作品って限られているんだと思います。
文章というものが持つ一側面を切り取って、体系的に確立したものなんです。
そう思って見てみると色々納得がいくんじゃないかな…?という話でした。
あとはネットを見ていると色々作品の「考察」している人を見かけますよね。
これに関しては…、読解は考察の一種ではあるとは思うのですが、やはり「考察」というと、そこには書いていないメタ要素を含め何から何まで使っていい、というのが両者の違いだと思います。
国語のテストでは書いていない情報(かつ学術的な知識や一般常識ではない)は使っちゃいけないんですよ。どうしても必要な場合は注釈があったり、冒頭に書いてあったりするんです。
どこに需要があるのかまったくわからない話ですが、長年思っていたことを書けて嬉しいです。
それだけです。
ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。
0 件のコメント:
コメントを投稿