ネタバレ多めなので注意です。
気になったことについて色々書いていきます。主観多めです。
雪生、キクコ、夏生の3人との交流が(回想を除く)話のメインになっています。
こうしてみると、挟まれているキクちゃん(キクコ)というのは秋のイメージなのではないかという気がしてきます。
冬、秋、夏の順番。
これも意味があるのではないでしょうか。
サイトウさんと付き合っていたのは冬。話の舞台は夏。
冬は心の傷の象徴、夏はそれを癒してくれるものとかエネルギーとかの象徴として描かれているように思います。
兄弟を見ると、母と過ごしていた時間の長かった雪生さんが最も傷ついていて、キクちゃんはそれほどではないけれど多少悩んでいて、夏生君は(あまり登場しないというのもありますが)基本的に元気な男の子として書かれています。
そう考えると、「わたし」がこれから恋愛をするであろう相手の雪生さんは無条件に自分を癒してくれる相手ではないわけです。(別に名前のことがなくても明らかにそうですが)
冬を知っていながらそれを乗り越えられる、抜け出せる、みたいなのが話のテーマなのではないでしょうか。
ストーリーの最後の方では夏が終わって再び涼しくなってきていますが、「わたし」は去年よりは冬を平気だと思えるようになっているはずです。
作中、映画と音楽が色々と出てきます。…が、映画のことはよくわからないので音楽について考えてみます。
キクちゃんが聴いていたヴェルヴェットアンダーグラウンド、聴いてみました。
細かなテンポの揺れやアレンジが繊細でありながら力強い印象を受けました。
あとは、夏生君が歌った歌の中にサイモン&ガーファンクルの『冬の散歩道』があったのがなんかいいなあと思ってしまいました。
古い洋楽が持つ独特な情緒を表現している感じもさることながら、この話全体が持つ雰囲気にどこか合っている気がしました。
サイトウさんとの思い出の冬とか森とか枯れ葉を思わせる感じ、「森を抜け出す」というテーマ。
歌詞の 'It's the springtime of my life' というフレーズが、3兄弟の名前にはない「春」の存在を補完してくれているようにも感じたり。
キクちゃんの方の一家もそうですし、「わたし」もですが、このあたりのエピソードが同年代と気が合わないことを象徴している気がしますね。
「わたし」はサイトウさんと付き合っていたし、キクちゃんはお店で働いていた時に無理して話を合わせられるよりも自分の知らない昔の話をされるほうが好きだったし、夏生君はちょっと年上の人たちとバンドを組んでいるし。
(私自身が70年代とかの曲ばかり聴いているので、この感覚、めちゃくちゃわかります)
作中、キクちゃんとのエピソードがたくさん書かれています。
島本さんの小説は数作しか読んだことがないのではっきりとは言えませんが、基本的にあまり女性同士の関係は描かれていなかったり、描かれていたとしてもネガティブな書かれ方をしていることが多いように感じます。
そんな中で、この作品では女の子同士の友情が温かく描かれているのが一つの希望になっているのではないかと思います。
女友達が「わたし」しかいないというキクちゃんに対して、それなりには友達がいそうな「わたし」。
けれど、やはり「わたし」にとってもキクちゃんは特別な友達なのではないでしょうか。
高校時代はそれほど親しくなかったけれど唯一妊娠を打ち明けたり、大学に入ってからはよく連絡を取っている様子だったり。雪生さんとの恋のキューピットでもありますし。
高校時代は一生の友達と出会えるとよく言いますが、その高校時代のうちは誰が一生の友達になるかなんてわからないのではないでしょうか。大学以降、気づいたら連絡を取る相手が減っていて、意外な人と関係が続くという。
それから、小学校の頃友達だった彩ちゃんという子も「わたし」以外に友達がいなかったという話がでてきます。
「わたし」は孤独な女の子を安心させる何かを持っているのではないでしょうか。
(それと同時に不安にもさせてしまう一面も持っているように思います。そこが難しいところですが)
あとは加世ちゃんも出てきますね。特別深い関係という感じはしませんが、ラストシーンでも一緒にいるのが何となく明るい未来を予感させます。
作中、サイトウさんと雪生さんはあえて似た人物として書かれているように思います。
二人とも眼鏡をかけているのなんかそうですよね。
だからこそ、最後の方で雪生さんが眼鏡を変えていることが意味深に思えてきたりします。
サイトウさんに対しては「十年も二十年も一緒にいるなんて冗談じゃない」と思っていますし、書いてはいませんが恐らく同じ眼鏡をしているところしか見たことがないのに対して、雪生さんは眼鏡を変えたところを見ることができた。
たったそれだけのことですが、長いスパンでの付き合いを考えるうえで大事なことなのではないでしょうか。
……まあ、眼鏡を変えるとシンプルに印象が変わるというのもありますし。雪生さん自身の変化の象徴としても書かれているように思います。
あとは、家族との関係に問題があったところも同じですね。これも同様で、雪生さんは最後に乗り越えています。
さらにいうと、二人とも堅実な職業というか真面目そうな雰囲気というか、そういうところも似ているかもしれません。島本さんの作品全般に割と共通している気もします。
あ、喫煙者というところもですね。ただ、雪生さんに対して「めずらしくおいしそうに煙草を吸う人」と書いてあるように、やはり雪生さんの方がポジティブに描かれています。
◆「サイトウさん」という表記の違和感
よく考えたらキクちゃんもカタカナではありますが、雪生さんも「キクコ」と呼んでいるので特に違和感はありません。下の名前ですしね。
しかし、サイトウさんについては、きちんと「斎藤先生」という表記が出てきます。同じ予備校の先生がそう呼んでます。
序盤の方から積もってきた違和感がここでワッと迫ってくるような気持ちにさせられます。
「わたし」にとっては「サイトウさん」だけど、客観的に見たら予備校の斎藤先生なのだと突きつけられるのです。
……よく考えると、さん付けで呼んでいることがそもそも結構おかしいんですよね。
最後についている解説でも、島本さん本人が厳密にはこれは恋愛小説ではないかもしれないと言っている通り、雪生さんとは恋愛関係にならずに(なる前に?)終わります。
雪生さんたちのお母さんの話について具体的な描写がないまま終わりますが、そのおかげでさっぱりした読後感を味わえるのかな、と思ったり。
ラグビーの試合観戦のシーンは、相手の大学が勝ったら一緒にタイのプーケットに行く、自分の大学が勝ったら嘘をつかないと約束してもらうということで、お互いが相手の幸せを願っているようで、希望が感じられてなかなか好きです。
自らの出生と関係するところ、幼少期の家族との記憶の中にある暗い部分が「森」を生み出してしまう、人はさながら森の中に生まれたようだ、という意味。
「わたし」のように、後天的に、特に異性との関係の中で傷ついて「森」が生まれる、という意味。
どちらもあるのではないかと思いました。
こちらも書いてます→ 島本理生『あられもない祈り』について考える
1年半前に書いたので今見ると若干ノリが子どもっぽいかも……。